川柳スパイラル



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[108] 『柳多留』にかえれとは誰も言わない 

投稿者: KOIKE 投稿日:2018年 2月17日(土)17時30分1秒 zaq7718ebcc.zaq.ne.jp  通報   返信・引用

新・現代川柳の切り口④  『柳多留』にかえれとは誰も言わない
         (「バックストローク」32号 2010年10月)

川柳という文芸の原点は『柳多留』にある。けれども、現代川柳の実作者で『柳多留』について語る人は少ない。
俳句では芭蕉のことが繰り返し取り上げられ、俳文学者(研究者)だけではなく、俳人(実作者)たちは芭蕉を理想とし、芭蕉の達成した境地を常に視野に入れている。アンチ芭蕉派が芭蕉に対抗して蕪村や西鶴を持ち出すことがあるとしても、それは芭蕉を否定しているわけではない。そこに戻るべき原点として「芭蕉」は確固とした存在感をもっているのだ。
一方、川柳においては、古川柳の研究と現代川柳の実作とが見事に乖離している。古川柳を語る人は専ら古川柳についてのみ語り、現代川柳を論じる人は現代のことのみを扱う傾向がある。『柳多留』にかえれとは誰も言わない。
近代川柳の出発に当たって、「狂句百年の負債」という呪縛があり、古川柳が否定された経緯があったのは事実である。けれども、ひとつの文芸が生成発展していくためには、自らの出自と対峙し、伝統的遺産と向かい合う態度は不可欠だろう。そこで今回は、『柳多留』について取り上げてみたい。
私はそれほど『柳多留』を読み込んでいるわけではないが、「古郷へ廻る六部は気の弱り」「指のない尼を笑へば笑ふのみ」などの句を愛唱している。ここでは、『柳多留』初篇から、最初にこんな句を挙げてみることにしよう。数字は通し番号。

新造に砂の降つたる物語 328

新造は若い女郎である。「新造に砂の降った」と読むと意味が分からなくなる。新造に「砂の降ったる物語」を語り聞かせているのである。主語は誰か。若い女郎にのんびりと昔話をしているのだから老人である。老人には新造があてがわれることが多かったという。この句が詠まれた宝暦八年から五十一年前の宝永四年には富士山の噴火があって、江戸にまで灰が降ったという。語り手(主語)は省略されているが、その場の情景がはっきりと思い浮かぶ。
以前、歴史の本でティムール帝国のことを読んでいたときに旧ソ連の作家ボロディンの小説『サマルカンドの星』の一節が引用されていた。老ティムールと一夜を過ごした若い女は、目がさめると自分の夜着の帯が解かれていないことに気づく。女は「ティムール老いたり」と驚くのであった。
それも力闘的な人間のひとつの老いの姿だろうが、『柳多留』の場合には駘蕩とした味がある。ただし、話を聞かされている新造の方は古臭い昔話に退屈している、という解釈もあって、その場合は、老人に対する皮肉な川柳眼となる。川柳の読みというのは、その一句をどのような文脈において読むかによって変わってくる。
次のような場合はどうであろうか。

美しい上にも欲をたしなみて    26
療治場で聞けばこの頃おれに化け  50

前の句の場合も主語が省略されている。「美しい」のだから、主語は美人だが、「欲をたしなみて」の部分が難解で、欲を控えて奥ゆかしいというのがひとつの解釈。もっと美しくなりたいという欲もある、という別の解釈もある。いずれにせよ、美しさの上にプラスアルファの価値を持つ女性である。
後の句、療治場は医者の診察室(または外科の手術室)とも言われるが、温泉地の湯治場だとすると、湯につかりながら「この頃おれに化けるやつがいるらしい」と話している状景になる。「おれに化け」というのは、誰が誰に化けているのだろうか。狸が人に、坊主が医者に、など諸説あるらしい。湯治に来ている間に、娑婆では自分になりすましている奴が現れたのだ。「この頃…」の部分が会話体である。
『柳多留』にしばしば現れるものに「話体川柳」がある。

出てうせう汝元来みかん籠      87
聞いてくりゃ命があるといふばかり  268

一句がすべて発話で成り立っている。全体を「 」でくくってみると分かりやすい。発話している状況が当然あるはずで、その状況を読み取ることに読者の興味は集中する。
前の句、「出ていけ。お前なんかもともと蜜柑籠に入れられて捨てられていたのを、今まで育ててやったのだぞ」というわけだ。「汝元来…」というもっともらしい口調がおかしみを誘う。
後の句、夫が事故にあって虫の息である。見舞い客に対して女房が、「聞いてくださいよ、やっと命だけはとりとめました」と訴えている、という情景だと読める。けれども、状況(文脈)を変えてみると、この句の意味はがらりと変化する。たとえば、色男が友人に向かって、自分がいかにもてるかを自慢している場面だと考えてみよう。女が離さないので、精力を使い果たして、もう命があるというだけ…というわけだ。よくそんな解釈を思いつくものだと感心するが、注釈書にちゃんと書いてある。さらに、相手がプロの女性だとすると、営業上の手練手管であるとも知らず、もてていると錯覚する男の愚かさとも読める。さて、この一句、どの文脈で読むのがいいだろうか。
このような会話体は現代連句の付句においても見られる。

  受け口動く途切れ途切れに         欅晴
「シャンパンのシャワーいつしよに浴びませう」 沙羅
  写真判定鹿毛と葦毛と           みち
     (『草門帖2』・歌仙「片身は夜叉の瀧」の巻)

「シャンパンの…」の部分が一句独立したものが、いわば「話体川柳」である。これを前句「受け口…」の文脈で読むと、恋の一場面となる。付句「写真判定…」の文脈で読むと、馬券が当たって祝杯をあげていることになる。連句の場合は、一句が多義的な意味を持っていることによって、次の句に転じていくのだが、前句付を出自とする川柳の場合は、その書かれざる文脈(幻の前句)を読みとらなければならない。川柳の場合も読みはひとつではなく、多義的であってもよいのである。
前に何かがある。それが先行作品の場合はパロディとなる。

雪見とはあまり利口の沙汰でなし 147

注釈書には芭蕉の「いざさらば雪見にころぶ所まで」が挙げられている。「雪見」だけから芭蕉句を連想するのは飛躍があるとも考えられるが、「子はこたつ親仁はころぶ所まで」(『柳多留』拾遺)という句もあるそうだから、芭蕉のパロディなのだろう。ちなみに『柳多留』初篇には「煮売屋の柱は馬に喰はれけり」という句があって、「道ばたのむくげは馬に喰はれけり」のパロディになっている。
古川柳といえば、穿ち・滑稽・軽みという三要素が言われるが、河野春三は前句付けに遡ることによって三要素とは異なる川柳の「生活諷詠」としての可能性を強調した。また、川柳は連句の平句との共通性が濃厚であるが、連句人・東明雅は連句を「世態人情諷交詩(人世の虚実諷交詩)」と呼んだ。そもそも、『柳多留』というタイトルは、前句付と江戸座の俳諧との結びつきを婚礼の祝儀に用いる柳樽にたとえたものであった。
私が『柳多留』に興味を持つのは、現代川柳に読み疲れて古川柳の一読明快を求めるからではない。『柳多留』の句は、一読明快どころか、何の意味かよく分からない句が並んでいるのだ。それは時代背景が理解できないから、というばかりではない。その句の状況や文脈が分からないからである。

蚊を焼いた跡を女房にいやがらせ  206
昼買た蛍を隅へ持てゆき      457
線香が消えてしまへば壱人酒    476
若とうに役者の墓を探させる    742

どの句も平易な言葉で書かれていて、難解な作品ではない。しかし、それぞれの状況・文脈には微妙に分かりにくい部分がある。一句目、蚊帳の中で蚊を蝋燭で焼いて退治したあと、灯りをかざして女房の寝顔を見るのであろう。女房は嫌がっているが、そこに男女の機微がありそうだ。二句目、昼間、蛍を買った子どもが夜を待ちきれずに部屋の隅に蛍籠を持っていくのである。部屋の隅は暗いから少しくらい蛍は光るかも知れない。そういう子どもの心情が立ち上がってくる。注釈を読むと、作中主体は吉原の禿(かむろ)だと書いてある。禿だと更に具体的にイメージが限定されることになる。三句目、線香で遊興時間を計るのである。茶屋に呼んだ女は、線香が消えるやさっと帰ってしまう。その後、男は一人悄然と酒を飲むのだ。四句目、若党をお供に連れているのは奥女中である。贔屓にしていた役者の墓がこの寺にあるのだろう。
こういう古川柳の微妙な味わいは、一句の背後から暗示的に立ち上がってくる。すべてが説明的に書かれるのでなくて、一点を示すことによって状況全体が浮かび上がってくる。
以上、『柳多留』初篇の句を例に挙げながら、古川柳の読みについて考えてみた。川柳を読むとは、その句が置かれている文脈を読むことである。それは、連句という付合文芸をルーツとし、前句付から派生した川柳の基本構造に結びついている。文脈を読むことによって、特定の状況下における人間の姿が鮮やかに浮かび上がってくる。
古川柳の書き方・読み方をそのまま現代川柳の書き方・読み方に適用することはできないので、私も「柳多留にかえれ」とまで言うつもりはないが、両者に通底する川柳の構造が存在するように思われてならない。現代川柳を読みながら、これは遠く『柳多留』にもつながっている書き方だと感じることがある。『柳多留』を近代的に解釈するのは間違いであり、その時代の読みに即して鑑賞しなければならない、とはよく言われることで、注意しなければならないのは当然だが、ここでは読みは文脈を読むことだという立場から『柳多留』にアプローチしてみた。『誹風柳多留』(新潮日本古典集成)と『誹風柳多留』(現代教養文庫)を参照したが、煩雑になるので注記しなかった。
最後に、こんな句はどうだろう。

蝋燭を消すに男の息を借り    498

女の息では消せないような蝋燭だから、百匁蝋燭のような大きなものである。宴会が終ったあとの座敷の状景である。しかし、そこには微妙な恋の雰囲気が感じとれないこともない。連句人であれば、この句を恋の呼び出しととらえ、次の付句には必ず恋句を付けることだろう。川柳の場合はそういうすべてを一句で表現しきらなければならないのである。




[107] 「私性」と「批評性」

投稿者: KOIKE 投稿日:2018年 2月16日(金)15時55分0秒 zaq7718ebcc.zaq.ne.jp  通報   返信・引用   編集済

新・現代川柳の切り口③   「私性」と「批評性」
          (「バックストローク」31号 2010年7月)

「川柳とは何か」という問いはあまりに漠然としていて生産的ではないので、近頃はなるべくこのような問い方はしないようにしているのだが、私は今のところ「川柳性」の内実について「詩性」「私性」「批評性」のトライアングルで考えるのがよいのではないかと思っている。「川柳は詩である」という考え方は河野春三・山村祐などによって展開され、「詩性川柳」という呼び方も定着している。「私性」については昨年九月の「バックストロークin大阪」のシンポジウムをはじめとして論じられるようになってきている。短歌などの他ジャンルからは「川柳でも私性が問題になっているのか」という驚きの目で見られているようだ。
「私性」の問題は、「思い」批判という文脈で語られることが多い。私自身も《川柳は「思い」の表現である》という考え方を繰り返し批判してきたし、現代川柳は《遊び》→《思い》→《言葉》という流れで展開してきたと考えている。
けれども、それでは川柳が《思い》ではないならば一体何なのだという反問に対してはいまだ十分に答えるには至っていない。「私性」の問題はこれからも深めていかなくなくてはならないだろうが、本稿では少し角度を変えて、「私性」からのアプローチではなく、「批評性」という面から現代川柳を考えてみたい。「私性」と対になるものとして従来「社会性」という言葉が使われてきたが、ここでいう「批評性」とは「社会性」に限定されない広義の意味の「批評性」である。
人は周囲の環境や社会と調和して生きているときにはあまり批評意識を持たないものである。逆に、周囲との違和感を持つときに批評は先鋭に発揮されるのではないだろうか。川柳でよく詠まれる「バス」という題材を例に挙げてみよう。

バスを待つあいだのぼんやりした殺意 石部明
バスを待つうわごとの木を抱えあい  清水かおり
バスが来てバスにゆだねるの刑    石田柊馬
バスも私も消える肉屋の鏡      加藤久子
バス停に小学生のままでいる     広瀬ちえみ

これらの作品における作中主体である「私」はいずれも何らかの違和を抱えている。殺意であったり、うわごとのような実存であったり、バスにゆだねることがひとつの刑罰であったりする。「私」は消失し、あるいは成熟を停止したまま今もバス停に立っている。それらの違和感はカタルシスに至ることもなく、沈殿していく。
このような違和感(現実や自己とのズレの感覚)は表現者の出発点だろうが、そこから川柳は社会批評に向かったり自己批評へと向かったりする。

はらわたのどのあたりからくそとよぶか 渡辺隆夫
はらわたから蝶を何匹発たせるか    松本仁

文体の似た二句を並べてみた。前者は、体内に取り入れた食物が排泄物に変わる、生物の機能をストレートに表現している。では、その境界はどこなのだろう。自己の肉体を冷徹に見すえた句であるが、「はらわた」は社会の喩としても読める。それに対して後者には、「はらわた(身体)」から蝶を飛び立たせたいという意志がある。蝶は美的存在としてのイメージである。現実を直叙するやり方は迫力があるが、後者のロマン主義も捨てがたい。
批評とは自己の意見に基づいて他者や社会について述べることだから、批評の定点(基準)が必要である。川柳は知の文学としての一面を持つのだ。従来の川柳における批評性は、庶民性・共感性を定点としたものであった。庶民の立場から、権力なり社会なりを批評する。けれども、現在では、批評の定点は曖昧で、批評の矢は即座に自分自身に帰ってきてしまい、批評の力は相対的に弱くなってしまう。川柳の力は断言にあり、その断言に共感できるだけの社会的ベースがないところでは、力を発揮しにくいのである。
このような状況下で、批評は第三者的な立場からでいいのだと喝破したのが渡辺隆夫である。それは一種のコロンブスの卵であった。他者を批判する根拠は何かとか、批評の定点は何かとか考え出すと、川柳の風刺の力はおのずから弱まってしまう。批評の矢が自分自身に戻ってくるという悪循環を断ち切るためには、批評とはしょせん無責任でいいのであって、他者を風刺したり笑ったりすることに臆病であってはいけないのである。
句集『亀れおん』の序文で松林尚志は次のように書いている。「私が渡辺氏の今後に期待するのは、他者に向けられた毒の刃が自己にも向けられることである。風刺でもたんなる野次馬ではなく、加害者に対する怒り、憎しみ、呪詛としての毒がなければならない」「他者への矢は自己までも貫くことによって表現者としての責任が果たせる。そこに渡辺隆夫という作家が存在しうるのではなかろうか」
渡辺隆夫の場合、他者への矢が自己までも貫くという方法を取ると、風刺の力は弱まってしまうと思われる。けれども、他者にたいする批判的批評と同時に、自己回帰的批評というものも当然ありうるだろう。

消しゴムは消しゴム蛹は蛹なり     石田柊馬

言葉と現実は必ずしも一致しない。現実は言葉を裏切る。あるいは、言葉が現実を裏切る。「消しゴム」でありながら「消しゴム」ではない状況を前提として、しかし「消しゴム」はあくまでも「消しゴム」なのだという断言が成立する。ここには「消しゴム」と「蛹」についての二つの断言がある。では、その関係はどうか。他者を消すことによって自らも磨り減っていく存在と、別のものに生まれ変わる一歩手前にある存在の微妙な取り合わせによって作品が成立している。
言葉と現実との乖離を意識するとき、イロニーという方法が思い浮かぶ。イロニーは現実と言葉とのギャップをその本質とする。現実が過酷であるときに「世界は優しさに満ちている」というたぐいの言葉を発するときに、その現実とのズレ・落差が激しければ激しいほど皮肉は強烈となる。主観的語彙は常に両義性を持っている。

眦の深き奴隷に一礼す        清水かおり

「バックストロークin大阪」で樋口由紀子はこの句を取り上げて「意外なようですが、清水かおりは社会性川柳に近いものをよく書いています。この句にも作者の思想の一端を見たような気がします」と述べている(本誌29号)。確かにここには「眦の深き奴隷」に対するリスペクトがある。権力機構の中で「奴隷」の側に立った発想は「強者―弱者」の図式に陥りやすいが、ここでは「眦の深き」という表現が奴隷の風貌を彷彿とさせ、形象化に成功している。
本誌3号に掲載された「言葉の背後」という文章で、清水かおりは槙村浩について書いている。槙村は「間島パルチザンの歌」で知られる、土佐の生んだプロレタリア詩人である。当時私は清水の作品の「詩性」の部分しか見ていなかったので、彼女がなぜ槙村を取り上げたのかが不思議であった。それで、高知を訪れた際には高知城のそばの「間島…」の詩碑も見にいったりしたのだが、清水かおりの作品の根底には「詩性」と同時に「批評性」があることを見落としてはならない。

経済産業省に実朝の首持参する  飯田良祐

暗殺された実朝の首を経済産業省に持参する。持参するのは暗殺者であろうか。けれども、実朝を死に追いやったのは経済産業省の方かも知れないのだ。現実にこの句のような光景はありえないのだが、現代と鎌倉時代という二つの時代をミックスすることによって、プロテストの表現に成功している。この句の根底にあるのは憤怒である。

あおむけになるとみんながのぞきこむ  佐藤みさ子

ラ・ロシュフコーの『箴言集』の中にあっても不思議ではないような作品である。吉田精一は『随筆入門』の「アフォリズム」の章でアフォリズム(箴言)と川柳の類似について述べていた。「私は二十年ほど前、日本の川柳が、ヨオロッパの詩形でいえば、エピグラムEpigramや、エピタッフEpitaph、即ち警句詩や碑銘の類に似ているという意味のことを、『三味線草』という大阪から出ている川柳の専門誌に書いたことがあった」「人生の諸相を極度に圧縮し、これを皮肉とうがちとを主にする観点から眺めて、警抜でかつユーモラスな観察をするのが川柳のもちまえである」「事物の姿を直観して、それを抽象的にでなく、感覚的にとらえるのは日本人のとくに秀でている技術といってよいかもしれない」
現代川柳の場合、皮肉と穿ちだけでは批評の観点(定点)をカバーしきれないが、事物の姿の直観は深い内面性と結びついている。この次元でのアフォリズム的川柳の書き手としては、佐藤みさ子を置いてほかにはいない。
批評とは社会や他者に対するものだが、他者を批評することを通して「私」というものがいやおうなく表われてしまうものである。「批評とは他人をだしにして自己を語るものだ」と言ったのは小林秀雄だが、批評にはそのような面があるのは確かである。即ち、「批評性」と「私性」とは連動しているのだ。従って、批評性の深化とは私性の深化である。いま批評性のある川柳が書きにくいとすれば、社会常識に寄りかかった「私」の日常的な感慨がすでに効力を失ったからであろう。批評性の衰弱は私性の衰弱であって、批評の力を薄めることなく、批評的言説をのべることは困難になっている。
俳句が「もの」を詠むのに対して、川柳は「こと」を詠むと言われる。イデアの影である現象から存在の本質的な姿をとらえるのが文芸であるとすれば、川柳においてイデア論はどのように成立するのだろうか。プラトンは現象をイデアの影だと考えた。人間は洞窟の中で光源とは逆向きの位置で洞窟の奥の壁を見ている。人間が見ているのはそこに映っている事物の影にすぎない。哲学者は事物の影ではなく、イデアの世界を見ようとするが、俳人の一部にも「物」の本質を五七五で詠みとめようとする考え方があるようだ。芭蕉が「ものの見えたるひかり」と言ったのもこのことだろう。それに対して川柳は「ことの見えたるひかり」ではないだろうか。
変転きわまりない世界の中で、現象の影だけではなくて、「こと」の本質を詠みとめることができたとき、真の意味での川柳の批評性が実現するだろう。



[106] ゼロ年代の川柳表現

投稿者: KOIKE 投稿日:2018年 2月12日(月)13時09分35秒 zaq7718ebcc.zaq.ne.jp  通報   返信・引用   編集済

新・現代川柳の切り口②  ゼロ年代の川柳表現
              (「バックストローク」30号 2010年4月)

一 ゼロ年代とは

2010年に入って、各分野で過去十年間の検証が始まっている。2000年から2009年までをゼロ年代と称するが、この言い方が注目されたのは宇野常寛の『ゼロ年代の想像力』あたりからだろう。その宇野の編集による「PLANETS SPECIL 2010 ゼロ年代のすべて」という雑誌が書店の店頭に並んでいて、宇野と宮台真司・東浩紀の鼎談をはじめ、漫画・映画・アニメから小説・音楽・美術に至るゼロ年代カルチャーの総括がおこなわれている。
「現代詩手帖」は昨年の九月号で「現代詩の前線」を特集したが、その副題は「ゼロ年代の詩人たち」であった。作品が掲載されている詩人たちは私たち川柳人にはあまりなじみのない人たちだが、小笠原鳥類は昨年末の『新撰21』の竟宴で挨拶していたし、岸田将幸は「現代詩シンポジウム・神戸」で司会をするのを見たことがある。
絵画では「絵画の庭―ゼロ年代日本の地平から」という展覧会が大阪の国立国際美術館で開催されたのは記憶に新しい。本誌の発行されるころには会期が終了しているが、奈良美智をはじめとする具象画の印象的な作品をご覧になった方もおられることだろう。
このように、各分野においてゼロ年代とは何だったのかが問われているが、不毛の時代という否定的なニュアンスで語られる場合もあって、ゼロ年代には何にもなかったという身も蓋もない言説と、逆にそんなことを言っても仕方ないから元気を出そう的な発言もある。また、気が早くもポスト・ゼロ年代についての言説がすでに始まっている。
では、川柳におけるゼロ年代とは何だったのか、というのが本稿のテーマなのだが、意外に川柳は元気なのである。そのことをまず振り返っておくと、2001年4月に「川柳ジャンクション」が大阪で開催、2002年2月に石部明句集『遊魔系』発行、2005年から『セレクション柳人』シリーズの刊行、それを受けて2006年3月に発刊記念川柳大会の開催。本誌「バックストローク」は2003年創刊、京都・東京・仙台・大阪の四大会を隔年ごとに開催。そして2008年から岡山大会スタート。作品・大会・シンポジウムを結びつけた文学運動としての川柳の動きがようやく始まったものと私は受け止めている。

二 大きな物語の終焉

文芸が時代とともに変化していくのは当然のことであるが、最も大きな時代状況の変化と考えられるのはリオタールが『ポストモダンの条件』で述べた「大きな物語の終焉」である。「大きな物語」とは社会の構成員が共有する価値観やイデオロギーのことである。ポストモダンにおいては、「大きな物語」が終焉し消滅するのだという。
いまこの考え方を川柳に当てはめてみると、「大きな物語」とは読者の共有する共感と普遍性ということになるだろう。「大きな物語」が成立しているあいだは、川柳の得意とする批評性や反語・皮肉などが通用しやすかった。「大きな物語」に対して、あるいは「大きな物語」を用いて、社会批判を試みることは川柳の正当な権利であった。けれども、「大きな物語」が崩壊したあとでは、断片化した現実・定点のない思いがあるだけで、川柳を書いたり読んだりするときの普遍的な方法は成立しにくくなってくる。「大きな物語」がだめなら、「小さな物語」で行こうというような安易なやり方ですませるわけにもいかないのである。そのような状況の中で川柳を書き続けるために、多様な方向性が模索されている。これを私はかつて「過渡の時代」(「過渡の時代の川柳表現」・「川柳学」第三号)と呼んだことがあるが、ここでは「過渡の時代」を「ゼロ年代」に置き換えて論じようとしていることになる。
五七五のわずか十七音で「大きな物語」を表現するのはそもそも無理とも言えるが、かつての川柳の場合、一つの見方・世界に対する切り取り方の中に普遍性が読み取れたのである。個別の日常性を詠むことで、その背後に例えば「市井に生きる庶民の哀歓」といったものが表現可能となる。個々の作品が断片化されるのではなく、個々の作品を通じて「大きな物語」が実感できた。即ち、個別作品の背後にそれを根拠づける「メタ川柳」(石田柊馬にならって「川柳が川柳であるところの川柳性」といってもよい)が存在した。けれども、現代川柳において、個々の川柳の根拠となるような「メタ川柳」はもう成立しない。「大きな物語の終焉」というと、「大きな物語」は現在でも確固と存在するではないかという反論が生まれるだろう。このような疑問に対して東浩紀は『ゲーム的リアリズムの誕生』(講談社現代新書)で次のように述べている。

「大きな物語の衰退」という表現を常識的に理解するならば、このような疑問が生じるのはもっともかもしれない。しかし、その反論は実は誤解に基づいている。というのも、ポストモダン論が提起する「大きな物語の衰退」は、物語そのものの消滅を論じる議論ではなく、社会全体に対する特定の物語の共有化圧力の低下、すなわち、「その内容がなにであれ、とにかく特定の物語をみなで共有するべきである」というメタ物語的な合意の消滅を指摘する議論だったからである。

ここで川柳界の特殊事情について触れておくと、川柳においてはいまだ必ずしも「モダン」を通過していない。「ポストモダン」は当然「モダン」を通過したところに成立する。河野春三をはじめとする「川柳ジャーナル」の作家たちが目指していたものは、川柳における「モダン」の確立であった。「川柳に私が導入されたときに川柳における詩がはじまった」という春三の言葉は、このことを端的に示している。彼らは「大きな物語」を信じていたのである。川柳の一句を創作するときに五七五のどこかに作者の「思い」をこめた言葉があるはずだ。逆に、川柳を読む場合は、一句の中の作者の思いがこめられている言葉を手がかりとして、その情念なり社会性なりを読み解くことが可能になる。即ちそれは、「私」という確固とした主体の成立を前提としていたのだ。
けれども、川柳における「モダン」は確立されないままに、なし崩し的に時代はポストモダンに突入した。「大きな物語」は終焉するはずであった。ところが、ここに川柳における「句会=共同体」の問題が浮かび上がってくる。句会・大会の参加者の大部分が均質化された同一の川柳観をもっている場合、句会という擬似共同体が言わば「大きな物語」の代用をしてしまうのである。特定の川柳観を信じるのは個人の自由だが、それが「小さな物語」にすぎないことに自覚的でなければならないだろう。「小さな物語」であるはずのものを「大きな物語」として信じるふりを強制されるのでは、健全な句会・大会とは言えない。このため、河野春三や山村祐などの「モダン」を志向する川柳人たちは句会否定論者だった。川柳革新運動が常に句会改革運動としての一面をもっているのもそこに理由がある。一方、「モダン」が確立していないところでは、句会における作品の相互模倣と消費が繰り返される。たまたま斬新な表現が生まれたとしても、それはたちまち模倣され消費されてしまうことになる。川柳は一周遅れて走っているために、言葉のデータベース消費が先端ジャンルにおいてと同じように盛んに行われているように見えるのかも知れない。

三 ゼロ年代の川柳表現

このような状況の中で川柳人たちは様々な書き方を模索している。その中でも「キャラクター川柳」は渡辺隆夫の発明であった。隆夫の川柳においては「亀れおん」「蛇姫」「ベランダマン」などの様々なキャラクターが登場する。それらのキャラクターは特段「大きな物語」に結びつくこともなく、断片的に、あるいは四句一組の連作の中だけで成立する。
ここで「キャラクター川柳」と「私川柳」について、改めて問題性を指摘しておきたい。大塚英志著『キャラクター小説の作り方』を川柳に適用して、かつて私は「キャラクター川柳」という考えを提出したことがある(「現代川柳における『私』というキャラクター」、「五七五定型」創刊号)。私性川柳、特に境涯川柳の多くは、病気・家族の不在や介護などを素材としている。そこでは、作中主体はそのまま作者主体であり、両者はまっすぐにつながっている。このつながりを断ち切って、川柳をテクストとして自律させるために、私は私性川柳の作中主体をあえてキャラクターとしてとらえてみた。病涯キャラ・エディプスキャラ・ファザコンキャラ・悪漢キャラなどに分類してみたのである。本来の「キャラクター川柳」の使い手はいまのところ渡辺隆夫ひとりであろう。
「大きな物語」の終焉に納得はしていないが、時代状況の変化には対応していかなければならないというスタンスをとる川柳人もいる。作品はそれが発表される「場」を無視しては成り立たない。ゼロ年代の川柳が1970年代と同じ書き方であるとしたら、それは時代錯誤ということになるだろう。石田柊馬は社会性の刃を懐に隠しながら言葉の強度と詩的飛躍のある川柳を書き、石部明は日常の深層にある非日常的世界を詠むことで川柳の限界を突破しようとする。
佐藤みさ子の作品に見られるアフォリズム的傾向は独自のものである。川柳は本来、アフォリズムと近いところにあるが、従来のアフォリズム的川柳が共感と普遍性に基づくのに対して、佐藤みさ子の作品は作者の独自の見方から発せられるものである。アフォリズムは何の根拠がなくてもよいので、断言の形式としてひとつの可能性をもっている。
さらに、自己表出の衝動なしに川柳を書く世代が登場してきている。兵頭全郎の作品は、表現意図のきわめて見えにくいものである。毎回「言葉」が設定されていて、そこから作品が書かれているように読み取れる。「言葉」は題であり、前句付に由来する川柳固有の方法を受け継いでいる。
以上のように、この十年間、川柳の新しい表現領域の可能性を求めて、様々な方向性が模索されているが、最後にひとつの疑問を提出してみたい。
「大きな物語」は本当に死んだのか?
もちろん他に対して抑圧的な「大きな物語」の復権など私は望んでいない。しかし、現代の日本社会に偏在するさまざまな病根を川柳人が黙って見ているわけでもないだろう。ポストモダンを潜り抜けたあとにかろうじて成立するかも知れない川柳による新しい社会批判の可能性を私は捨てきれない。
最後に断っておくが、本稿では「ゼロ年代川柳人」を論じたのではなく、「ゼロ年代の川柳」を問題にしたのである。ゼロ年代の川柳は先行世代の川柳人たちが先鋭化したところに生まれているので、これが真に定着するためには後発世代の川柳人たちの個性的な活動が欠かせないことは言うまでもない。「ゼロ年代川柳人」というようなものは、まだ存在しない。



[105] 現代川柳における身体性

投稿者: KOIKE 投稿日:2018年 2月11日(日)09時05分58秒 zaq7718ebcc.zaq.ne.jp  通報   返信・引用   編集済

過去に書いた文章ですが、「バックストローク」がもう手に入らないので、
ここに再掲することにしました。

新・現代川柳の切り口①  現代川柳における身体性
    (「バックストローク」29号 2010年1月)

一 身体図鑑
「身体性」というアプローチは、現代の文学や哲学において広く見られるところである。現代思想の流れの中で従来「精神」に従属させられていた「身体」に積極的な意味が付与され、身体の復権が唱えられるようになってから久しい。また、現代のコンピュータ社会の中で身体の持つ意味が改めて問い直されてもいる。では、現代川柳では「身体」はどのように捉えられているのだろうか。
セレクション柳人『広瀬ちえみ集』(邑書林)に「身体図鑑」という章がある。「手」「耳」「顔」などの題は句会・大会でもよく見られるが、ここでは身体の句が図鑑のように意識的に並べられているので、一瞥してみよう。

触覚と触覚でする会話かな      広瀬ちえみ
左手は魚をつかむ練習中
流れ着くワカメ、コンブを巻きつけて
ニワトリの声で電話に出てしまう
手術痕何を出し入れしたのだろう

触覚で会話をするのは蟻などの昆虫であるが、ヒトが幻の触覚を出して相手を探り合っている状況を連想してもおもしろい。左手は練習しなければ魚をつかめないのだろうか。右手ならどうなのか。ニワトリの声で電話にでることができるなら、別の声を出す場合もありそうだ。手術痕の句が示している出し入れされる内臓は、現代医学に対する軽い皮肉であるだけではなく、人体のアンドロイド化も連想させる。広瀬の作品では、ふだん自動的に動いている身体が日常的文脈からのズレと違和を持つものとして表現されている。そのことによって読者は改めて「身体」を発見する。注意しなければならないのは、これらの作品では作中主体が意識的に消去されていることである。ワカメ・コンブを巻きつけて海から上がってきたものは誰か。広瀬の作品を読むとき、私たちは改めて次のように問うことから始めなければならない。その手は本当にヒトの手なのだろうか?と。

二 体内感覚とふしぎな身体
次に『現代川柳の精鋭たち』(北宋社)収録作品から、畑美樹・清水かおり・佐藤みさ子の三人を取り上げてみよう。

朝蝉の中へ差し出す両手首      畑美樹
体内の水を揺らさず立ちあがる
体内の葦は父より継ぎし青      清水かおり
ガラス器抱いて肉体に夏至のごと
正確に立つとわたしは曲がっている  佐藤みさ子
倒れないように左右の耳を持つ

畑美樹の作品には「体内湿度」というタイトルが付けられている。ここでは身体は世界との関係性において、あるいは体内感覚として表現されている。一句目、「朝蝉」の鳴いている世界に対して、「私」の身体を代表する「両手首」を差し出す。身体と世界との関係性は良好のようだ。二句目、体内感覚は水のイメージで表現されている。コップの中で水が揺れるのと同じように、身体は一つの器である。内部感覚としての体内水位は外部世界に存在する水と繋がっている。
清水かおりの場合、身体は父・ガラス器などの他者や外界と繋がりながら、多彩な展開を見せている。外部世界はあるときは意志的にあるときは受苦的に身体内部で様々なものに変容し、内在化された実存的な景を見せている。
佐藤みさ子の場合、身体性は動詞に典型的に表われている。一句目、「立つ」と対になるのが「曲がる」という動詞である。「わたし」が曲がっていることを認識するのは何によってだろうか。たとえば鏡に映った自己を見て、私たちは自分の姿を知る。だが、佐藤の句は鏡像を介在させないことによってシンプルな説得力をもつ。曲がっていることの自負を感じさせるのである。二句目、倒れないように自分の手で自分の両耳を持つのだろうか(そんなことは馬鹿げている)。それでは、倒れないように誰かに自分の両耳を持ってもらうのだろうか(それはもちろんナンセンスだ)。この作品はひとつの精神の姿勢を述べているだろう。佐藤の句は身体を詠むことによって精神を表現する。身体を表現することで直截的に作者の精神が顕われてしまうのである。
畑美樹の体内感覚、清水かおりのイメージの変容、佐藤みさ子の自己に対する批評性など、現代川柳において身体性は多彩に展開されている。

三 損傷される身体/監視される身体
ここまで女性柳人の作品ばかり取り上げてきたので、視点を変えて男性の作品を考えてみよう。

ゴッホ               松本仁
明恵
いずれの耳か
高く舞う


『現代川柳の精鋭たち』から、松本仁の代表句である。ゴーギャンとの共同生活の破綻の末に耳を切り落としたゴッホ。仏教者として生きるために耳を切った明恵上人。傷つけられる身体のイメージがまず提示される。そして損傷される身体の、いずれの耳かわからぬが、宙を舞う耳が一匹の蝶に変身するのだ。
余談になるが、現代アートの世界で耳に執着した彫刻家に三木富雄がいる。アルミ鋳造による「耳」シリーズは有名だが、「私が耳を選んだのではなく、耳が私を選んだ」という三木の言葉が伝わっている。気になることは、三木が作り続けたのは左耳であって、右耳は作らなかった事実である。

水銀の球あつまって乳房となる    野沢省悟
卵黄をひそかに愛撫するときに
スプーンの曲線に指すべらせて
輸卵管はるかな星に降る雪と

セレクション柳人『野沢省悟集』から、「輸卵管」と題する連作である。ここには当然、性愛のイメージがあるが、卵やスプーンなどの「物」が性愛のイメージと重ねられている。エロティシズムの対象が女性ではなくて、物に向かっているが、それはフェティシズムというのではなくて、性愛の視線で物を見るとどのような表現が可能であるのかという実験的な試みである。

コインロッカーの中に私の手を隠す  定金冬二
森閑と親しきものに見張られる    小池正博

句集『無双』に収録されている定金冬二の句は、発表当時、難解句と受け取られたようだ。コインロッカーに赤ん坊が遺棄される事件が起こった頃なので、そのことと関連させて論じた文章を読んだ記憶がある。けれども、「私の手」は現実の手などではなく、人間が誰でも持っている秘匿しておきたい部分の隠喩にすぎない。押入れや地下金庫ではなく、簡単に出し入れできるコインロッカー程度が手ごろなのだ。冬二にもこんな句があるのが興味深い。
秘匿と監視。拙句「森閑と」は直接身体を詠んだものではないが、監視される身体をイメージしたものである。ヒトによる監視のほか、現代ではカメラやコンピュータによる監視も盛んで、電脳的身体疎外が始まっている。バイオメトリックス認証という言葉を聞いたことがある。犯罪映画などによく出てくるが、声紋や眼球の虹彩などによって機械がヒトを判別する。ここでは「私」が「私」であることを保証するものは「私の意識」ではなくてテクノロジーであるということになる。「私の意識」においては「私」であるに違いないのに、機械は間違いなく「私」を認識してくれるだろうか?

四 言葉と身体
「MANO」十四号に樋口由紀子は「身体」をテーマにした二十句を発表している。

「を」という助詞が素通りしていく身体 樋口由紀子
体毛はピンポン台の上を飛ぶ
ダブルベッドのどこに置こうか低い鼻
平安時代の頬で生きると疲れない
泥のついた髪ですどうぞよかったら

冒頭の句、身体を通り抜けていくのは風などではなくて「を」という助詞であるという。国語学者の時枝誠記は「語」を「詞」と「辞」に分けた。助詞は「辞」である。それが身体を素通りしていくのだ。「に」でも「と」でも「も」でもなく一個の「を」であり、ひょっとすると複数の「ををを…」が通過していくのかも知れない。「辞」は語と語を繋ぐ働きをするが、同時に微妙な、付かず離れずの関係性を表現することもできるし、繋がっているように見せかけて断絶することもできる。短詩型において助詞の重要性がしばしば説かれる所以である。「辞の断絶」について菱川善夫はこんなふうに言っている。
「辞という、この最も柔い、癒着しやすい部分は、その意味で私にとって不思議に官能的な部分である。塚本の作品に限っていえば、人格などという高潔なものではなく、人間が、まさにそこに在るという感じに近いであろうが、辞にむかう時、まずもってその実感から離れることができぬ」(菱川善夫「実感的前衛短歌論」)
塚本邦雄の短歌について述べた部分であるが、樋口の作品を読んで私は菱川のこの文章を思い出した。
「平安時代の…」という句などよくそんな嘘をつけるものだと感心してしまう。かつて樋口が「足首に青い病気を持っている」(『ゆうるりと』)と詠んだとき、「青い病気を」という目的語は確かな実体的イメージを持っていた。けれども《「を」という助詞が…》と書くとき、樋口がとらえているのは言葉そのものなのである。



[104] 「川柳スパイラル」2号・句会

投稿者: KOIKE 投稿日:2018年 2月 3日(土)20時38分29秒 zaq7718ebcc.zaq.ne.jp  通報   返信・引用

「川柳スパイラル」2号は3月25日発行予定ですが、
句会の日程だけ先に発表しておきますので、
ご予定ください。

東京句会
 5月5日(土) 文フリ東京の前日です
 北とぴあ 802号 13:00~17:00
 詳細は未定ですが、イベント的な要素も加えての実施を考えています。

大阪句会
 5月19日(土)
 たかつガーデン 百合 13:00~17:00
   「合評会+句会」の通常のかたちです。



[103] 節分ですね

投稿者: KOIKE 投稿日:2018年 2月 3日(土)09時57分28秒 zaq7718ebcc.zaq.ne.jp  通報   返信・引用

今日は節分、明日は立春です。
「川柳スパイラル」2号の原稿集まってきています。
読んでいておもしろい句や文章が多く、編集の甲斐があります。
二月の予定を書いておきます。
どこかでお目にかかれれば嬉しいです。

2月10日(土) わかくさ連句会 奈良・はぐぐみセンター 13:00~ 奈良県連句協会主催
2月13日(火) 草原10周年記念句会 ハートピア京都 13:00~
2月18日(日) 大阪連句懇話会 たかつガーデン 13:00~
2月24日(土) 勺禰子歌集『月に射されたままのからだで』を読む会 キャンパスプラザ京都 



[102] 2号締切今月末

投稿者: KOIKE 投稿日:2018年 1月23日(火)08時36分34秒 zaq7718ebcc.zaq.ne.jp  通報   返信・引用

京都句会と文フリ京都が終わり、ほっとしています。
次は「川柳スパイラル」2号の編集にかかりたいと思います。
投句・原稿の締切は今月末、1月31日です。
来月ではありませんので、よろしくお願いします。
会員作品もぼつぼつ届きはじめています。
連載の方の原稿もよろしく。
2号は同人・会員以外のゲスト作品も掲載予定で、
創刊号よりパワー・アップします。
3月25日発行。よろしくお願いします。



[101] 京都句会 速報

投稿者: KOIKE 投稿日:2018年 1月21日(日)20時49分53秒 zaq7718ebcc.zaq.ne.jp  通報   返信・引用

「川柳スパイラル」創刊号の合評会と句会を
1月20日に京都・烏丸御池の町屋で開催しました。
句会の速報です。
打ち間違いがありましたら、ご指摘をお願いします。

兼題「調べ」

7点 突起する調べよよーかん切ろうか      石田柊馬
6点 オザワの指から無数のくもの糸       山下和代
   副葬はラ・カンパネラ蓋開けよ       清水かおり
5点 溝板のトッピンシャンや今日より別居    岩根彰子
4点 少女来て逆白波を調律す          小池正博
   調べると月を孕んでいるおとこ       佐々木紺
   はなやかな調べでしたね以下余白      北原照子
   銀河よりたなびき出した越天楽       笠嶋恵美子
3点 バイエルを忘れて柿の実が熟れる       兵頭全郎
   かけあいの調べ美し団子花         岡本遊凪
   狛犬の口から洩れる裏祝詞         竹井紫乙
2点 B面に落ちて正しくなる調べ         城水めぐみ
   33rpmならみずうみ             八上桐子
1点 海鳴りに合わせる臨月のビオラ        内田万貴

雑詠

10点 空耳をやわらかくして売りにゆく       佐々木紺
9点  詩人ではない右側がよく渇く        城水めぐみ
5点  無言電話ドーピングしたかもしれぬ     北原照子
        正直な人から曲がる御堂筋          深海魚
4点  王法と聴こえふり向く猫がいる       清水かおり
        クレバスの青にまみれている独り       笠嶋恵美子
        「ポロリ」のたび「拝受」と返す穴がある   内田万貴
        透明な犬が抱き合う真夜中に         瀬戸夏子
3点  薄明の巨木そんな姿だったんだね      小池正博
2点  ハイター済みの白鳥さんのいるお池     八上桐子
1点  それなりの水と砂ありけものなり      石田柊馬
   ぷにゅぷにゅと軟着陸の5番線        伊庭日出樹
   渡辺のナオミ気分のデカパンツ       岡本遊凪
   院長に私鰈の一夜干し           岩根彰子



[100] 京都句会ご案内

投稿者: KOIKE 投稿日:2018年 1月14日(日)09時25分53秒 zaq7718ebcc.zaq.ne.jp  通報   返信・引用

「川柳スパイラル」創刊号、京都での合評会・句会、
時期が近づきましたので改めて詳細をご連絡します。

日時 1月20日(土) 午後1時~5時
会場 侍(SAMURAI BAR)
    京都市中京区上妙覚寺町230-1  地下鉄烏丸御池下車
     https://www.instabase.jp/space/3316
雑詠1句・兼題「調べ」1句
午後1時 開場
午後1時30分 出句締切 欠席投句拝辞
午後1時30分~3時 「川柳スパイラル」創刊号の合評会
  対談 清水かおり&小池正博
   対談時間は30分~40分、その後、参加者といっしょに合評会となります。
   対談内容は、海地大破さんのこと、「川柳木馬」のこと、高知の川柳界・短詩型文学界のこと、
   「川柳スパイラル」創刊号作品についてなど。
午後3時30分~5時 川柳句会
午後5時~ 懇親会
会費 1000円(懇親会は別途徴収)
申込み 残席あり。この掲示板で参加表明していただければけっこうです。
     同人・会員だけでなく、どなたでも参加できます。
アクセス 少しわかりにくい場所です。
 京都市営地下鉄烏丸線「烏丸御池駅」2番出口を出て、
 3番目の通りを右(北)へ進むと、右側(東側)の11軒目です。
 「衣棚通(ころものたなどおり)押小路(おしこうじ)上がる東側11軒目」
 直接会場にいらっしゃってもけっこうですが、
 当日「京都国際マンガミュージアム」の門前(門の外)に集合していただければ、
 ごいっしょに参りましょう。12時40分出発です。会場までは5分くらいです。




[99] 合評句会と文フリ京都

投稿者: KOIKE 投稿日:2018年 1月 4日(木)13時29分20秒 zaq7718ebcc.zaq.ne.jp  通報   返信・引用

三が日も終わりました。
1月20日・21日に向けて準備を始めます。
どちらか、あるいは両日お目にかかることができれば嬉しいです。

1月20日(土) 「川柳スパイラル」創刊号・合評句会
 12月に東京句会を行ないましたが、今回は趣向を変えて、
 京都の町屋を会場とし、高知から清水かおりさんをお迎えして
 開催します。

 日時 2018年1月20日(土) 午後1時~5時
 会場 侍(SAMURAI BAR)
    京都市中京区上妙覚寺町230-1  地下鉄烏丸御池下車
     https://www.instabase.jp/space/3316
 雑詠1句・兼題「調べ」1句
 午後1時30分 出句締切 欠席投句拝辞
 午後1時30分~3時 「川柳スパイラル」創刊号の合評会
   (清水かおり・小池正博の対談を含む。
   対談では海地大破さんについて、「川柳木馬」について、「川柳スパイラル」作品について
   話し合います。)
 午後3時30分~5時 川柳句会
 午後5時~ 懇親会
 会費 1000円(懇親会は別途徴収)
 申込み 残席あり。この掲示板で参加表明していただければけっこうです。
     同人・会員だけでなく、どなたでも参加できます。

1月21日(日) 文フリ京都
 京都市勧業館(みやこめっせ) 一階第二展示場
 11:00~16:00 (11:00以前には出店者以外は入場できません)
 「川柳スパイラル」として出店しています。
 ブース番号 け9・10
 「川柳スパイラル」創刊号、合同句集『川柳サイドSpiral Wave』1号・2号、
 『水牛の余波』「THANATOS」など販売します
 2ブース分借りていますので、同人・会員のみなさまで句集・フリペなど
 ご持参いただければ置かせていただきます。持参・回収は各自でお願いします。
 20日の句会に不参加の方はこの日、清水かおりさんとお話しできます。



 


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