感想など何でも掲示板



カテゴリ:[ なんでもフリートーク ]


18件の内、新着の記事から10件ずつ表示します。


[18] nishiyanさんへ

投稿者: 佐藤公則(管理者) 投稿日:2017年 2月24日(金)11時17分9秒 218.231.162.99.eo.eaccess.ne.jp  通報   返信・引用

 ぼくの問いは表層の薄っぺらいところでの思い込みからなっていて、手と足と口などからする従来までの農業にたいして、昨今は頭でする農業という形が見られるようになったという仮説から出ていたように思います。要するに生業の農業に対する趣味の農業ですね。この趣味の農業が小さなブームのように広がっている。これは本業じゃないから頭でやっているんだととらえてみたわけです。一昔前だと盆栽になるんじゃないかとも考えたわけです。
 nishiyanさんはそれに対して農の根本のところから説かれていて、たぶんぼくの仮説とか疑問を呈した言葉自体が意味をなさない、的を射ていないと教えてくれているように思いました。ぼくも自分の思い込みに対して確信がないので、「頭でする農業」という仮説自体を考え直してみようと思います。
 雑な考えや表現にも関わらず、わざわざこちらの意とするところまで出向いて推し量り、さらに丁寧にお答えいただき感謝するばかりです。ありがとうございました。




[17] RE「農の感動」について

投稿者: nishiyan 投稿日:2017年 2月23日(木)13時54分26秒 ZG084041.ppp.dion.ne.jp  通報   返信・引用

 確かに、「『農の感動』というものはあくまでも農事の上からは二次的な産物」に見えるかもしれませんが、従事し活動する人の深層の動機や動因になり得るような気がします。どんな仕事でも、始まりのきっかけにはいろんな偶然が大きく働いているようにも見えますが、その後その仕事を持続する動因としては、身に付いた日々の習慣的な自然性とともに家族の経済を支えるとか自分の性に合っているとかいろんな層の動機群が考えられるように思います。しかし、人の行動を深く根本的に左右するのは、深層にある動機だという気がします。「農の感動」に類するような負の感動も想定できるように思います。わたしが学校の教員を辞めたのもそんな動因からだったような気がします。

 少子化とか盛んに問題化してあれこれ言われていますが、これもその現象として湧き上がってくる動因を人の動機群や人の生活というものをきちんと探査することが根本的な捉え方に通じるような気がします。行政担当は、あの太宰治の「かくめい」という言葉のように、人の本心の深刻さに直面しようとせずに数字片手に周囲を大変大変とうろつき回っていて、けっして根本的な解決の道筋には至れないような気がします。つまり、仕事しているふりにしかならないでしょう。そして、ほったらかしのような状態で、負が膨らみ過ぎてどうしようもなくなったらさらに慌てふためくのでしょうか。
 こんな風に、その深層の動因はいろんな分野に当てはめて考えることができそうに思います。

 深層の動機は、家族の生活をほったらかしにできないなど様々な他の動機との兼ね合いで、なかなか表面化しにくいのでしょうが、その人の生存の感覚を押し潰すような事態になったら発動するような気がします。つまり、我慢に我慢を重ねてようやく出て来るようなものかもしれません。また、「あたかもこの二次的な産物をメインとして農事をはじめようとするひとが出てきた、あるいはそういう風潮が感じられる気がします。」と述べられていることは、わたしはその具体的な状況がよくわかりませんが、飢え死にはしないさなどの深層の動機を中心に絞り込めるような発動しやすい状況があるのかもしれませんね。



[16] Re: 「農の感動」について

投稿者: 佐藤公則(管理者) 投稿日:2017年 2月23日(木)08時39分33秒 218.231.162.99.eo.eaccess.ne.jp  通報   返信・引用 > No.15[元記事へ]

 こちらの問いがしょうもないために、世話をやかせてしまってスミマセン。

 まず作物を収穫しようということがあって農事のさまざまな段階を経ていくときに、いろいろ感動することがあるんだよということですね。
 種を蒔いて芽が出た。茎が伸び葉が育ち花が開いた。やがて実がなり、収穫が近づいてくる。今では当たり前のことだけれども、当事者となればそのいちいちの体験、出会いに、またいちいち心が動かされることがあるということだと思います。
 田畑を有しているひとは、次の年も当然のように作物を植え付け、収穫することをくりかえすことになる。そして、たしかにここまでのところではぼくの疑問が入り込む余地は皆無だと思います。

 その上で、なお考えますと、この「農の感動」というものはあくまでも農事の上からは二次的な産物というところで、メインにはなり得ないことのように思うのです。ところが、最近かすかに感じるのですが、あたかもこの二次的な産物をメインとして農事をはじめようとするひとが出てきた、あるいはそういう風潮が感じられる気がします。これはぼくの勝手なイメージで、あてになりません。あてにならないので勝手に自分で考える以外にないのですが、この一種静かな農のブームは、現代人の植物的な生命過程への回帰願望みたいなものかもしれないと考えたりしています。でも、よくわからないんです。若い人から定年退職後のひとまで、世の流れに逆行するごとく農に向かう、その衝動に底流するもの、あるいは渇望の本体が。



[15] 「農の感動」について

投稿者: nishiyan 投稿日:2017年 2月22日(水)14時53分32秒 ZG084041.ppp.dion.ne.jp  通報   返信・引用

 柳田国男の「農の感動」というのは、簡単なことで、農作業をしててもあるいはふと手を休めて風を感じていてもあるいはまたやっと収穫できたときとか、ああいいなとかうれしいなとか感じる、そんな感動のことです。それは人間的な活動の根っこのようなところから湧いてくるものだと思います。もちろん、これには失敗したとかうまくいかなかったとかの逆の場合もあるでしょう。

 「農の感動」ということは、農に限らず他の仕事でも同様だし、さらにはこの世界で人が生きているということから来る普遍的なものということができます。どんな仕事でも、さまざまな動機の違いから下っていって、その人の意識や心の中心の方を抽出してみたらそれは普遍的なものとして浮上してくると思います。(これは仕事との相性が悪い人の場合はその感動はないかもしれませんが。)しかし、農や経済や労働を専門的に論じる者で、そこまで触れる者は少ないような気がします。つまり、農に従事する人々の内側に触れることができる柳田国男の言葉はすごいなと思っています。



[14] Re: お尋ねの件

投稿者: 佐藤公則(管理者) 投稿日:2017年 2月21日(火)22時28分55秒 218.231.162.99.eo.eaccess.ne.jp  通報   返信・引用 > No.13[元記事へ]

 ありがとうございました。

 ぼくは潜在意識みたいなところを遡って行ったときに、縄文の狩猟採集や漁労の博打性、計画性のなさみたいなところが割とぴんとくるのです。その日狩猟に出かけて、たくさんの獲物にありついた、あるいは空振りで手ぶらで帰ることになった。そういう恵みにありつけるか否かが日によって違うほうが楽しく感じられます。一方、農業というのは従事する人の努力次第というところがあります。毎日コツコツ努力することも必要です。
 つまり、後者についてぼくはちょっと分かりづらいところがあります。狩猟に出るときはイメージがあり、夢があると思います。わくわく感もあると思います。
 柳田国男を引いて、「農の感動」ということをnishiyanさんは言っておられますが、その部分がちょっとぼくには分かりにくいんです。実感的な部分で分かりにくいんです。
 それから、少し前から農が小さなブームになっていまに続いてきていると思いますが、あれこれ含めて考えて、みんなに持たれている農の魅力の本源は何なのだろうかというのが先の質問の根底にありました。ぼくがテレビなどを通してみたかぎりでは、定年後に農業をはじめた人の中で、農産物の生育過程に携わること自体を重要視しているタイプと、特定の種にこだわってこれを収穫し、それを食し味わうことに重点を置いたタイプとあるように感じられました。印象を拡大していくと、そんなふうに分けられるような気がしたのです。農の起源としては後者のタイプが近いだろうと思います。これは狩猟採集の側に立っても、なんとなく理解できるところがあります。ところが前者となると、一次的な食の欲望から離れて、いわば高次な捉え方がなされている。どうもこのあたりから謎が深まって・・・・。



[13] お尋ねの件

投稿者: nishiyan 投稿日:2017年 2月21日(火)14時37分6秒 ZG084041.ppp.dion.ne.jp  通報   返信・引用

 大まかには二つに分かれると思います。仕事として農業をやっている人は、育てるものは先々商品となるものだから、例えば野菜の見た目(よくきれいに育てられてるなと、スーパーで大ネギのすばらしさには感心します)など意識するはずです。そのための施肥や消毒や支えなどの手当をされるでしょう。仕事だから、きれいで立派に見えるものは商品となり、自宅で食するのは二級品みたいなものになるのではないでしょうか。つまり、栽培-収穫までが仕事として主要な関心になるように思います。

 一方、わたしのように趣味みたいに作物を育てている人は、佐藤さんが指摘されたように、作物の選択-栽培-収穫-食べるという全過程が念頭にあると思います。専業の人は、作物の選択は好みではなく商品ということを意識したものになるでしょうが、わたしたちは売り物にはしないので、食べたいものや育てやすいものなどを栽培し、見た目もあまり気にしません。そして、専業の人と比べて趣味みたいなものだから動機を含めて個の物語性のようなものが専業の人よりは強いのかもしれません。

 しかし、作物を育てたり、収穫したものを食べるなどの中で味わう、柳田国男が指摘した農の感動のようなものは、両者ともあると思います。あと、一般には作物は一年に一回の実験ということになりますが、両者とも作物を「よく見聞きする」のは普通のことだと思います。つまり、悪ければどこがまずかったのかなと来年に生かそうとすることになります。実際は、いろいろな要素が関係しているようで難しいのですが。こんなもので返答になっているでしょうか。



[12] Re: ああそうだった

投稿者: 佐藤公則(管理者) 投稿日:2017年 2月20日(月)15時35分10秒 218.231.162.99.eo.eaccess.ne.jp  通報   返信・引用 > No.11[元記事へ]

 一つ質問させてください。これまでだれにも尋ねたことはないのですが、農産物の生産者、作物を栽培し、収穫する人たちにとって、収穫するまでがメインでしょうか、それとも収穫以後に自分で実際に食するというところがメインでしょうか。
 動機的には、あれをあんなふうに調理したらうまかろうなどの発想から、この種をまこうというのが純なところかと思います。さらに、こんなふうに育てたらもっとうまくなる、と進んでいくのかと。ぼくは食す方の専門なのでこんなふうに思いますが、農業の専門家に限らず、趣味で栽培に向かう人たちも初発の動機はどうなんでしょう。nishiyanさんはどうでしょう。
 しょうもない質問なので、本当にヒマでどうしようもないというようなときがあればそういうときにお答えいただければ結構ですのでお願いします。



[11] ああそうだった

投稿者: nishiyan 投稿日:2017年 2月20日(月)11時03分17秒 ZG084041.ppp.dion.ne.jp  通報   返信・引用

ああ、そうだった。文学の表現で、都に住んでいないのに都風(文化中央の規範)の雨の降り方の描写を規範として模倣しても、本当はこの列島のその地その地の微妙な雨の降り方の違いがあると柳田国男は書き留めていました。また、同じ行事を行う春でも寒暖や風景が違うとも言っていましたね。空間的にも時間的にも(他人や他の地域や過去に対して)わたしに限らず人はどうしても自己本位の視線になってしまいますね。つい、そのことを失念していました。もらった種を蒔いて2年目の菜の花が今満開です。この菜の花は食べられるということで、もう何度も収穫しました。ソラマメは、こちらでは11月から12月にかけて種を蒔き、5月から6月ごろの収穫になります。



[10] Re: RE言葉について

投稿者: 佐藤公則(管理者) 投稿日:2017年 2月19日(日)21時51分59秒 218.231.162.99.eo.eaccess.ne.jp  通報   返信・引用 > No.9[元記事へ]

 考え込ませたようでスミマセンでした。おかげでブログの方の文章の意がすっきりしまして開けた感じがしました。ありがとうございました。

 nishiyanさんの地方はこちらに比べて気温が高く、今の時期で、植えたそら豆の草取りをしなければならないんですね。このあたりではあまりそら豆を栽培する話も聞きませんが、時期的には2月3月が種植えのようです。畑にも川土手にも、雑草といっても枯れた色合いが残るまでのもので、大地が緑かかってくるのはもう少し先のことです。天気が晴れていても気温は2度3度、日中も風はまだ冷たい日が多いです。時折10度を超える日があり、落差の大きさに体も戸惑います。
 上手に育てて、好みに調理して食すというのは何よりでしょうね。よい出来映えに育つようにお祈りします。



[9] RE言葉について

投稿者: nishiyan 投稿日:2017年 2月19日(日)13時39分12秒 ZG084041.ppp.dion.ne.jp  通報   返信・引用

 結論から言えば、吉本さんの「表現された言葉」と言う場合の「表現」は、言葉の関わるあらゆる人間的な表現を指しているとわたしは理解しています。そして、そのことは太古の言葉の初源も現在の言葉も同一の構造であると考えられていると思います。

 言葉というとき、わたしたちは一般的には無意識にも現在的な言葉の有り様から反応・判断します。このことは言葉ということに限らずどんな対象についても同様だと思います。

言葉の匂いを持つ叫びなどの表出・表現→次第に整序されていく話し言葉→文字の成立による書き言葉の発生、話し言葉と書き言葉という二重化。

 わたしたちは、その言葉の段階的な推移で今のところ見通せるの段階の最後の段階から一般には言葉というものを捉えていますが、発生期の構造は形を変えていても現在でも反復されていると思います。つまり、心の波立ち→(叫び含めた)言葉への表現→反作用としての自己に返ってくる波立ち、という構造は遙か太古より反復されてきた同一性だと思います。

 言葉の発生期から言葉を踏み固めてきて文字の成立を経てきた現在では、文学的な表現と(生活世界の)話し言葉との表現とは違いはあると思います。両者とも吉本さんの捉える言葉の表現の基本構造としては同一でも、文学的な表現は主に書き言葉として降り積もった文学表現の歴史的な現在を、話し言葉の表現は降り積もった生活世界の表現の歴史的な現在を、それぞれ媒介(呼び寄せ、参照、批評)しているという違いはあると思います。

 ちょっと考え込んで書いてみました。天気が良すぎるので、そらまめの草取りにでもでようかなと思っています。


レンタル掲示板
18件の内、新着の記事から10件ずつ表示します。

お知らせ · よくある質問(FAQ) · お問合せ窓口

© GMO Media, Inc.